私が経営コンサルティングの会社を興した理由を最初にお話しさせて頂きます。
私は危機意識を感じている日本社会の課題として、右図のグラフにように、生産年齢人口(65歳以下)が減り、社会全体の高齢化(66歳300以上)が加速。そして、人口全体も減少します。1965年には老年人口が17人に1人(総人口の6.3%)であったのに対し、現在は3人に1人(28.9%)、2065年には2人に1人(38.4%)と圧倒的な労働力不足に陥り、

図.1 日本社会の課題
かつ総人口は2065年には、現在の3分の2になってしまいます(総人口 2020年:12,532万人→2065年:8,808万人)。
<参考:総人口と老年人口>
・1965年:総人口 9,827万人の 6.3%に相当する、老年人口 618万人
・2020年:総人口12,532万人の28.9%に相当する、老年人口3,619万人
・2065年:総人口 8,808万人の38.4%に相当する、老年人口3,381万人
このような状況では、企業活動も海外へ流出し、子供が少ない・作れない社会へと変わり、文化の継承もできず、国力の低下を招きます。
更に、労働力を補うために、海外から労働者に来て頂かなくてはなりません。語弊を恐れずに申しますと、現在の日本人の思考の中には、「ひと昔前の時代のごとく、外国人労働者の方は低賃金・低技能・低教育の労働者である」と考える思想が、いまだ一部では残っています。しかし、私も海外に住み仕事をしていたこともあり分かりますが、現実は優秀で素晴らしい外国人労働者の方が多いです。かつ、高賃金の方はもちろん、低賃金の方でも、非常に有能な方が多いのが実情です。さすれば、現在までは日本人のほうが、外国人労働者の方よりも優遇された労働状況ですが、近いうちにその構造は崩れ、外国人労働者の方が日本人よりも優位な労働状況になるケースが増えていくことは自明の理だと考えます。つまり、そこそこの教育レベルの日本人は、日本国内であってもグローバル競争の中で外国人労働者の方に負ける。付加価値のない者は淘汰されるという状況になります。その時、日本人はいままで優遇された環境にいたために、淘汰される状況に対して、公平に見れずメンタル的に耐えられない方も出てくるのではと、他の先進国の事例から見ても推察します。
これら状況を改善するためには、子供を作れる安心な環境・社会の創造と、グローバルで抜き出た人材の育成に取り組まなくてはならないと考えています。

図.2 日本の出生数・死亡数推移

図.3 毎年消えていく人口 = 県

図.4 毎年消えていく人口 = 政令都市
また、図.2は、日本の出生数と死亡数の推移です。
2009年に両者は逆転し、2060年には年間120万人以上の日本人が減少する時代です。
この年間120万人の日本人が減少することを、別の例えで表します。図3は県人口が120万人以下の都道府県をリスト化したものです。
1960年代には、岩手県や石川県などの県が毎年消えていくことに等しく、島根県や鳥取県であれば同時に2県が消えてしまうほどの恐ろしさです。
図4のように、政令都市で考えると、さいたま市、広島市、仙台市、千葉市が毎年消滅することになります。
このような状況の中、「I have a dream」、私には実現したい夢があります。
そして、この夢は私だけで実現するには時間が掛かる上、スケールも小さくなるために、より早く、よりスケールの大きい夢にするために、夢を共有し、ともに実現する仲間を作りたいと考えています。
「I have a dream」から「We have a dream」へ。私たちみんなで夢を実現したいと強く思います。
私たちの夢、それは、
「この国を築いてくださった先人たちにお見せしても恥ずかしくない日本を創る」ことであり、「豊かな精神性と文化性を持った社会を築き、こどもたちへ残す」こと。
私がこの夢を強く思う理由には、祖父に原体験があるからです。
祖父は、終戦後日本に帰還した際、地平線まで広がる焼け野原を目にしました。その光景に愕然とします。しかし、その数分後には、生き残った自分が日本を復興させなくてはならないと考え、焼け残った少ない私財を売り、奈良の奥地にある山を買いました。まず復興にはインフラを整備する建材が必要だと考え、木を伐り、石を引き出し、砂を運び、焼け野原に家を建てる建築材料の会社を興します。そして、祖父が1番したかったことをします。それは、社員を雇うことで、その村に、その街に雇用を生み出し、街の人が生きていけるように働き口を作っていきました。さらには、その社員たちに事業の起こし方を手取り足取り教えて、会社を起こさせました。そうすることにより、さらに雇用を生み出し、街を、社会をさらに豊かにしていきました、なお、社員たちに起こさせた会社は惜しみなく支援をする一方、子会社化やグループ会社にすることはなく、社員の生活と幸せのために、独立した会社とさせました。

図.5 I have a Dream から “We” have a Dream へ

図.6 ヴィジョン

図.7 ミッション
このような立派な祖父に恵まれたなか、もう一方の祖父も、帝国海軍の特攻隊の生き残りであり、死ぬまで終始背筋がまっすぐにピンと伸びた素晴らしい人でした。この人は、地元地域の役人となり、水道事業の総責任者となりました。昭和20-30年頃当時のインフラ事業に携わる人は、多くの建設業の企業から中元・歳暮に大量の贈り物が送られてくるのが一般的でした。しかし、公僕の身として、指一本触れることなく、送り主にすべて自費で返送する、清廉潔白な人でした。そのような祖父は、琵琶湖から流れる大阪の大河淀川が氾濫すると、自分の家が洪水で浸かろうとも街の復旧のため陣頭指揮に立ち、祖母も夜通しで米を炊き、がんばる役人や関係者の人へおにぎりを配る、自分よりも他者を救う利他の精神の人でした。その後、街の復興のため、そして将来への安心のために、毎年洪水の危機があった状態から200年に1度しか起きないであろうと言われる治水・下水道施設を創り上げます。しかし戦後10年ほどしか経たない昭和30年代初頭は地域に資金がなく、文系である祖父は自身で建築学を勉強し、そして部下・同僚たちとの人心一体化を行い、様々な工面と創意工夫で実現します。その偉業は、当時後進国である日本では例を見ない、世界から見学使節団が来日されるという、立派な治水・下水道施設を築いた祖父でした。
そのような祖父たちの姿を見て育った私は、苦労してこの国を築いてくださった先人たち・ご先祖にお見せしても恥ずかしくない日本を創り、次世代の子供たちに豊かな精神性と文化性を持った社会を渡したいと、強く心に刻みました。
いま、私は、僭越ながら、この日本経済を支えてくださっている企業様、日本を創っている企業の経営者様をサポートさせて頂くことで、上記の心に刻んだ思いの実現に向けて貢献したいと考えています。そして、10年後には、こども達を教育と文化を軸に支援する財団を創りたいと考えております。AIが台頭し、更にグローバルで人の流れが変わる世の中で、仕事の質は変化します。問題発見ができ、新たな価値を創出できるグローバル思考の人材へこども達を育てたいと考えています。更に、15年後には1,000億円企業に致します。パナソニックに在籍中に、気付きました。社会に影響を与えようとするには、最低でも1,000億円規模の事業体でなければ、起こせぬと。そのため、このハードルを飛び越えます。
このステップを経て、夢、ミッションである「この国を築いてくださった先人たちにお見せしても恥ずかしくない日本を創る」と、「豊かな精神性と文化性を持った社会を築き、こどもたちへ残す」を実現致します。


図.8 小谷の経歴 ①

図.9 小谷の経歴 ②
私は2001年に大学院卒業後、現パナソニック株式会社(当時は、松下電器産業株式会社)に入社。LSI半導体の開発技術者として社会人をスタートさせました。それまでも、学生時代に自分でビジネスを立ち上げたりしていました。
中学時代からミッションの実現のために、将来独立して経営者として事業運営をすることを決めていました。そのため、2001年の入社時には、16年後に独立することを決め、まず入社後8年間は技術者として成果を作り、会社に貢献する。そして、その後、独立するために、経営の職種に移り、10年間経営を学び独立すると決めました。
多少のずれはあるものの、入社後18年目に、事業を興しました。
まず、2001年から2008年までは、パナソニックで技術開発者、研究者として従事しました。
入社から3年間は、世界最初の130nm LSIの開発と量産化のメンバーの1人に加わることができ、研究所と工場生産の現場で携わることができました(1nmとは、1mmの100万分の1の長さです)。このプロジェクトで一定の成果を作った後、ある機会が訪れました。パナソニックとして、EU政府が支援する10年先の最先端研究を行う国際研究機関IMECへの研究員派遣です。たった数名の派遣で、優秀な熟練の開発技術者を送り込むことになっていましたが、たまたま冗談まじりで上司が本件を紹介してくれたことを私は真に受け、参加を希望しました。上層部は悩み、結果、1人ぐらい若い者も加えても面白いということで了承され、メンバーに加えて頂きました。着任した場所は、私の予想を超える、世界最高峰の知能と最強の自然環境と業務環境の場所でした。約80カ国からノーベル賞級の世界の頭脳と呼ばれる人たちが集まり、またIBM、フィリップス、サムスンなどの世界有数の企業のTOP研究者が集まっていました。
私はこの最上の環境と彼らとの交流によって、論理的思考、課題抽出力、グローバル思考が鍛えられ、技術的知見へも大いに明るくなりました。また、当時、週末ごとに様々な国やビジネスの展示会への旅行、各国大使館主催のビジネス誘致団への参加を行い、ビジネスのトレンドを掴むことに勤めました。帰国後は、世界初の45nm LSIの開発・量産導入を行うことができました。育てて頂いた会社へ御恩を返すことができ、技術者として1つの区切りができたとも思い、当初の計画通り、入社8年目の転地に挑みました。
2008年、経営に携わる職に異動することを考え、パナソニック以外の会社へ転職の準備を進めます。パナソニック以外を目指したのは、技術者から急な転換は難しいと考えたためで、それであれば、1からマーケティングやマネジメントの優秀な他社から再スタートしようと考えました。しかし、1度だけ役員幹部の部屋の扉を叩いてみようと思い、いまでは見るも恥ずかしい事業計画を携え、パナソニックの役員幹部に、経営に携わる職に異動したいと伝えました。幹部にとっては、半導体という別の社内カンパニーにいた私ですから、まったく面識もない者でしたが、急に来た来訪者に、「お前、おもろいヤツやな」と言われ、「経営を学びたいというなら、パナソニックで1番過酷な事業の経営企画にしたるわ」と言われました。そこはテレビという看板商品を担うために、パナソニックでも、えりすぐりのメンバーがいるところでした。更には、当時テレビだけで売上1兆円以上もある事業体でありながら、経営戦略を担うスタッフはたった数名。売上1兆円といえば、それだけでJAL等を超える一部上場企業の上位ランクにあたるような事業体規模です。その上、他のメンバーは百戦錬磨のような方たちの中で、私は32歳という若輩。更には2000億円以上の赤字を抱える慢性赤字という厳しい状態から入りました。ここで、さまざまな経営手法の検証を行え、結果、毎年数100億円以上の利益改善(営業利益率換算で毎年5%以上の改善)を実現、8年ぶりの黒字を成し遂げました。その中には様々なの新規事業の立上げなども行い、「社長賞」「事業長賞」をそれぞれ個人として受賞し、評価頂きました。27万人いるパナソニックの社員の中でも、両方の受賞を手にしたものは少ないです。
このように経営を現場で実践しつつ、赤字を黒字へしていくことをミッションに、経営マネジメントやマーケティングなどを身に付け、鍛え上げていきました。
また、人という側面からも経営を学びました。社長・専務・常務などのパナソニックの役員幹部や海外会社の社長、経済界のエグゼクティブに仕えました。その間、戦略の立案から、それを絵に描いた餅にしないための現場と一体になった実践、さらにはマスコミ対応、数千億円規模の投資や撤退など、様々なことを行いました。その間、どのような経営者が事業の成功を収め、どのような経営者が事業を弱体化させてしまうのか、多くの経営者と一緒に仕事をすることで、その違いに気付き、成功するリーダーに何が必要なのかを知りました。いまでは、経営者を見るだけで、その方が成功するのか否かを悟ることができます。 更に、海外から国賓としてお越しになられたシンガポールのS.R.ナザン大統領や中国の胡錦濤 国家主席、ベトナムのグエン・ミン・チェット国家主席など、国のTOPへと上り詰めた様々なVIPの方々にも、滞在期間中、お仕えしてきました。このことは、おそばで世界的な指導者としての立ち振る舞いや、TOP・リーダーとしての姿勢を直接見ることができ、OJTで学ぶことができました。米Forbes誌で全米TOP5に選ばれたマーケッターのジェイ・エイブラハム氏や、『7つの習慣』で有名なコヴィー博士と共同で提唱し、米Fortune誌選出世界優良企業500社中400社の経営者を個人コーチングしてきたロイス・クルーガー氏とも、個人的に交流でき、さまざまな実地的ノウハウを賜りました。
これらの2008年からの10年間で、事業経営を魚の目、鳥の目、虫の目で経営を目利きすることができ、どのような事業や環境でも利益を改善し、黒字化を実現できるようになりました。と同時に、リーダーとして、経営者として、どうあるべきなのか、あるべき姿勢を見極めることができました。
(魚の目)市場や事業環境、世の中の流れを捉え、また企業内の動きも読み取り、事業を適切な取り組みへ方向付け
(鳥の目)工場のモノづくりから、開発、調達、物流、マーケティングまでの多くの経験を糧に、一部の専門性だけに頼ることなく、俯瞰的に事業全体を分析
(虫の目)細分化することで課題をあぶり出し、具体的で実践的取り組みへの落し込みし、現場と一体で実行
その後、2018年、入社当時に決めた社会人生活18年目に、事業を興しました。経営コンサルタント事業は、「We have a dream」であるビジョンを実現するために最適な分野と考えると同時に、これまでの知見やノウハウを活用して貢献できると思い、興しました。事業経営の基本の重要さと経営者としてあるべき姿をお伝えできると思い。いまは、多くの人とのご縁を頂き、その大切さと、そして、私がどのようにお役に立てられるのかを真剣に思う日々です。
ここからは過去の実績をより具体的に示します。
2008年に経営企画職能に異動してから、私が携わった事業は1兆円以上の売上があるものの、約▲1,000億円規模の慢性赤字事業でした。そして、着任数ヶ月後には、リーマンショックによる金融危機で翌年には営業利益▲2,000億円以上の巨額赤字に陥りました(図.10)。それは、当事業だけでなく、パナソニックの屋台骨を脅かし、倒産がすぐそこまで来ている、まさに危機的状況でした。更には、図.11のように、為替はドル円で例えると、2008年に1ドル=108円が、2011年には75円台まで円高に。競合企業である勧告メーカーと対比すると、同じ仕様の商品を同じ規模の工場で作っても、韓国勢の1.7倍以上も原価コストが掛かる商品しか作れなくなっていました。そのため、原材料調達はドル建てで購入したり、多くのパートナー企業とともに海外生産・海外人材へシフトしていきました。そして、何とかこの円高で利益が得られるような状況になった途端に、急激な円安へ流れが転換。せっかく築いた収益体制も、もろくも崩れ、将来の行く末が見えない状況でした。しかも、海外にシフトした生産体制や人材を、もう1度日本に戻そうとしても、すでに日本にはその基盤も残っておらず、対処する方法もあまり残されていない厳しい状況でした。
一方、商品の価格の話に転じれば、主要商品である薄型テレビは、10年で8割も市場価格が下落するような状況でした(図.12)。
この状況は、まさしく地獄のような状況で、社員の多くが朝7時から出勤して早朝26時まで仕事をする状況であり、不夜城状態。工場も閉鎖・撤退を始め、私も海外工場を閉鎖する際に現地で軟禁にあうなど、厳しい局面ばかりでした。リストラを行い、多くの仲間を失うなど、またそれを実践することで精神も消耗しましたが、パナソニックから離れていって下さった方々のことを思うと胸が痛く、我々が事業を復活しなければ、その方々の思いに報いられないと強く感じました。が、しかし、どんなに社員一丸になっても、どんなに精一杯働いても、まったく改善できない。そのような状況で、「どうして!なぜ!なぜ!なぜ」を繰り返す日々でした。そのうち、私自身がこれまで技術者としてやってきたこと、海外で学んだことなどにヒントがあることに気付き、事業課題の全体俯瞰からの細分化・見える化や数値化、社員のマインドの持ち方などに成功要因があるのではないかと掘り下げ、そこからV字回復への道がスタートし始めました。
その結果、図.13のように、毎年 数100億円の利益改善、時には500億円以上の改善を果たし、利益率換算5%以上を毎年実現し続けました。これ以降、さまざまな事業で、黒字に向けて必ず利益を改善することができるようになりました。この理由は、多種多様な赤字事業を黒字化する過程で、プロセス・手法が共通することに気付き、その改善過程をモデリングすることで、4つのSTEPに体系化できたからです。現在、コンサルタントや研修でクライアント様にお伝えしている、基盤を成す経営手法です。

図.10 営業利益率の推移①(私が関わった事業の合算値)

図.11 リーマンショック後の乱高下する為替(ドル-円)

図.12 主要商品である薄型テレビの価格下落

図.13 事業を取り巻く状況

図.14 営業利益率の推移②(私が関わった事業の合算値)
この4つのSTEPにより、どのような事業でも安定的に販売・利益成長ができるようになり、かつ人員削減などをすることがなくなりました。新規事業・新規商品の開発にも、立上げ失敗がなくなるようになりました。

図.15 気付いたこと ①

図.16 気付いたこと ②

図.17 気付いたこと ②
以上のような状況を通して、気付いたことがあります。
それは、「経営は人」。
特に経営者トップ。経営者トップが替わると、そこに働く人の動きも変わり、収益も変わります。
世界的リーダーや様々な経営者と一緒に行動し、そして事業を運営する中で確信しました。
次に、「準備」。
なにごとも、計画と戦略を事前に立て、それを実直に実践すること。
簡単なことですが、なかなか出来ていない。しかし、事前に準備できていると、幾千倍にも力は強化されます。またもし事前に立てた計画や戦略が、状況に応じて変化しなければならないときは、その理由を明確にし、次の方向性を具体的に立てればよいのです。
3番目に、「すなおさ」。
客観的にものごとを分析し、判断する。状況が変われば、自身も変化し、動きも変えることです。
時に人間は、己の信念や考えと異なると、受け入れがたいこともあります。しかし、1度異なる意見を受け留め、客観的に判断し、取り入れるべきかどうかを判断することが重要です。今、電気製造業で世界のトップを走る韓国のサムスンやLGなども、2000年初頭に日本から教授を招聘し、日本型経営をすなおに学び、そして、すなおに経営判断をしてきました。更にその後、海外進出を進める中で、その国の状況や変化にもすなおに耳を傾け、大きく飛躍していきました。
「すなおさ」は、とても重要な成功要因です。
このような気付きのもと、さまざまな取り組みをして参りました。
公開可能なものだけですが、私が取り組んできた実績から、具体的事例を紹介致します。
新規事業の開発と立上げとして、
パナソニックに在籍時、家電とはまったく異なる事業を企画・商業化しました。それは、「サービス付き高齢者住宅」と呼ばれるもので、法律施行されたことで翌年から出現した業界でした。よって、介護事業者であっても初めてとなる、誰も営んだことのない業態で、パナソニックにとっては更に異分野となりました。パナソニックの強みである「総合力・営業力」には頼れない「マーケティング」と「戦略」「戦術」こそ成功の鍵となる分野でした。この新規創造の事業をお客様のニーズやインサイトを探り、その上で、他社にはない顧客の心を捉えるサービスを付加して導入。一気に全国へ店舗展開し、事業を拡大しました。
また、液晶パネルの修理リサイクル事業の立上げを行い、5年間で数10億円以上の利益を創出。パナソニックから事業長賞を獲得し、評価されました。
独立後も、ベンチャー立上げを進める顧客の事業立上げを手伝い、経済産業省のビジネスコンテストで、セミファイナリストまで押し上げました。
また、マーケティングでは、
ブランド強化を中心に戦略を打ち、例えば、最後発であった「4Kテレビ」を、最下位から国内首位奪取まで一気に躍進させました。
更には、街の洋菓子店を2年連続スウィーツ百名店(2017年/2018年連続受賞 /食べログ☆3.95)へと押し上げ、来店客がたえないお店へと変貌させました。これは、周辺の環境を調査して「客層を絞る」、ある商品だけが引き立てられる商品ランナップとするべく「品数を絞る」、そして、退店時に「お客様が心地好い印象で去ることができる」のポイントを重視した結果です。ブランドが醸成されたお店はそう簡単に販売が落ちません。

図.18 新規事業の立上げ

図.19 ブランド戦略によるシェア1位奪取

図.20 国家プロジェクトへの参画
さらに、国家プロジェクトなどの対外的に大きなプロジェクトなどにも、多く携わりました。
上海万博の日本館の企画や、数千億円以上の工場投資など、重要局面の交渉やその実現を行いました。
このような経歴と実践から、お客様の夢の実現に向けて、
■経営課題の真因抽出:具体的かつ現場が実践可能な取組み立案とその実行
■ビジョンと環境・戦略を軸とした事業計画/中期計画の立案と、現場一体での目標実現
■赤字脱却・黒字増益を実現する経営体質強化:事業を成功させるか否かを分ける違いと、様々な赤字事業を黒字に変えた4つのSTEPの経営法の導入
■新規商品・新規事業の開発
■TOPたる者の姿勢、経営者/事業企画の育成支援
などを中心に課題の解決を図り、クライアント様とともに明日へ向かっています。
『We have a dream』によって、豊かな精神性と文化性を持つ社会を築くために。